『夜と霧』を通して考える、心のつよさ
『夜と霧』という本は、第二次世界大戦中に、
アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生き延びた
精神科医のヴィクトール・フランクルが、
その壮絶な体験と学びを記した記録です。
寒さに震えながら食べる、スープの中の数少ない、小さなじゃがいも、、
少しでも暖をとるために、隊列の真ん中に立とうとする
強制労働での出来事、、
普通の生活からは想像もできない世界で、
彼は「なぜ自分はここにいるのか?」という問いに苦しみながら、
次第に、少しづつ、心の強さを見つけていきます。
題材は、かなり重たい内容ですが、
研修で「一度は読んでおくこと」と宿題になり、読んでみました。
人間の「弱さ」を描く勇気
収容所での悲惨な出来事はよく語られていますが、
フランクルはそこにある「小さな日常」の出来事から、
人間の弱さについても、率直に語っています。
厳しい環境に置かれたときに出てくる人間の脆さや心の葛藤が、
印象深く描かれています。
フランクルは、精神医学を学ぶ過程で、
フロイトやアドラーといった著名な哲学者たちに師事していました。
彼はウィーン大学で神経科の教授として活躍していましたが、
やがてユダヤ人であることを理由に収容所へ送られる運命にありました。
どれほど高い地位にあった人でも、
状況が一変すれば、誰もが弱さをさらけ出すものです。
フランクルはその体験を通じて、
人間の「みっともない」部分をも赤裸々に綴っており、
わたしの心に深く響きました。
生きる意味を「見つける」
フランクルは、極限の環境でただ生き延びるだけではなく、
「生きる意味とは何か?」を考えました。
そこで彼が気づいたのは、「自分が生きることから何を得られるか」ではなく、
「生きることが、自分に何を求めているのか」という180度違う問い方でした。
何をやり遂げ、何を伝えるために生きるのか——
それが、フランクルにとっての「生きる意味」だったのです。
この考えに触れた瞬間、彼はこの過酷な体験を世に伝えることを使命と感じ、
「精神科医として、この地獄の中で感じたことを広めよう」と決意します。
また、愛する家族と再会したいという思いも、彼の生きる力を支え続けました。
極限状態では、普通なら何も考えられることはできず、
ただただ、苦しい今を耐えることしかできないと想像します。
フランクルは「生きること」からの問いかけについて、
次のように語っています。
『生』が、われわれに期待していること
- 一般論で答えることはできない
- 漠然としたものではなく、具体的な何かでなくてはならない
- また、人により、また瞬間ごとに変化するものである
たとえば、「家族と再会したい」「自分が体験したことを伝えたい」など、
自分の行動が誰かに役立つこと、愛する人に届くこと。
その具体的な意味こそが、人を強く支え続けるのです。
極限を生きるための「勇気」とは?
収容所での毎日は、死と隣り合わせの究極の選択の連続。
収容所でチフスが広がり、次々と命が奪われていく中、
フランクルは逃げる機会もありました。
チフスに罹った収容者の生存率は、見積もって5%程度。
しかし彼は「どうせ死ぬなら、人の役に立つことをして最後を迎えよう」と決心し、
病棟の専属医として、最期まで病人のそばに残る道を選びました。
そこに彼は生きる意味を見出し、「苦しむ勇気」を持つことで、
苦しい日々を生き抜いたのです。
フランクルが学んだのは、「苦しむことの意味」を理解することが、
絶望を超える鍵であるということ。
彼は「苦しむことは、何かを達成することだ」と考えました。
「涙を恥じる必要はない」と語り、
苦しみを感じる心の強さが、彼にとって人間の本当の価値だったのです。
「意味」を見つけることで変わる世界
フランクルは、人生で何が起こるかを自分で選ぶことはできないが、
その出来事にどう向き合い、どう捉えるかは自分の選択だと気づきました。
極限状況にある人々が生き延びられたのは、
決して「性格」や「体力」ではなく、「生きる意味を見つけた人」でした。
日々のストレスや小さな困難も、
「なぜ自分はこれに向き合っているのか?」と考えるだけで、
心の持ち方が変わるかもしれません。
『夜と霧』は、ただの戦争体験記ではなく、
「生きる意味」について深く問いかける作品として語り継がれています。
「何のために自分は生きるのか?」を、改めて考えてみたくなる一冊です。